福来友吉

福来友吉

日本における「催眠」の歴史をひもといて行くと、必ず「福来友吉」という名前と、「千里眼事件」というのが出てくる。

福来友吉(1869~1952)とは、催眠術の研究に本格的に取り組んだ日本最初の心理学者で、当時東京帝国大学に心理学教授として在籍し、明治三十九年、「催眠心理学」「催眠心理学概論」(明治三十八年出版)という著書を出版し、戦前までの日本を代表する催眠研究の書として評価されていた。

図 2:福来友吉博士。超常能力の実験を行い、世界に先駆けて「念写」という現象を発見した。

福来の著書「催眠心理学」は、欧米での当時の研究状況と膨大なる実験データが記載されていて、このなかには、合理的説明のつきにくい現象が、数多く記載されている。

例えば、福来本人の実験のなかに、催眠に入っている被験者が、福来の机上に置かれていた学習書の何ページに何がかかれているかをぴたりと言い当てたとある。しかも、この被験者は、高等教育を受けたものではなく、その学習書を理解することなどとても不可能だったという。こうした実験結果から、彼は超常現象の存在を意識し始めていった。

「催眠心理学概論」には、プランセット(こっくりさんの原点)による自動書記現象を、誰にでもある、第二人格(現在の多重人格現象)の自分以外の人格による現象と解釈し、また当時ちまたで流行していた、霊界との交信現象を、強迫観念にもとづく幻視、幻聴と位置づけている。しかし、催眠による”感覚鋭敏化現象”として「千里眼」(当時、透視や予言等のことを千里眼といった)等は、「潜在意識」による特殊現象とするだけで、その具体的な分析はされていない。この種の研究は、当時も現在もまったく同じである。 千里眼事件とは、明治四十三年(1910年)から四十四年にかけて、超常能力の有無をめぐっての肯定派と否定派を二分し、論戦した事件であり、当時マスコミの中心であった新聞を大いににぎわした事件である。この事件の中心人物は、御船千鶴子と長尾都子という二人の超常能力者(千里眼)で、この二人の女性をいろいろな角度から、実験研究をしたのが”福来友吉”であった。また、この二人の女性が超常能力にめざめたきっかけが催眠術であったことから、催眠術自体が、この事件に深く関与したことになり、催眠術の動向にも大きな影響を与えた。

右:御船千鶴子、左:長尾郁子

明治四十三年九月以降、千鶴子が本格的にマスコミに登場するようになると、全国から続々と超常能力者が名乗りを上げた。この中の、二十八人の超常能力者に関するデータによると、催眠中の暗示によると答えたものが九人、御船千鶴子を模凝したと答えたものが五人、(「千鶴子の模擬」とは、催眠術による暗示と、精神集中トレーニングのことだと思う)ということは、理由不明の者三人を除いた二十五人中、じつに十四人が超常能力発現のきっかけを「催眠術」としていることになる。

図3:右は精神を集中して透視をする御船千鶴子、左は世界で初めて念写を成功させた長尾郁子

やがてこの二人の女性の急死(明治四十四年一月千鶴子の自殺、同年二月都子の病死)により、また、日露戦争の影響もあって、千里眼事件は終止符を迎えた。

その後、物理学者を中心とする否定派学者の強力な批判、マスコミによる批判もあり、福来友吉は、おおやけの場から遠ざかっていった。

その”福来友吉”が再び沈黙を破ったのが、二年後の大正二年(1913年)八月、「透視と念写(宝文社)」の刊行である。彼は同書で、新たな超能力者、高橋夫人の存在を紹介すると同時に、かって彼と一緒に実験研究をしたことのある、物理学者などに共同実験を呼びかけたが、福来の呼びかけに答えたものは一人もいなかった。

その後福来は、大正四年十月(1915年)東京帝国大学を去っていった。去っていったというよりも、追放されたという方が的確かもしれない。その頃の福来は、催眠、透視、念写、霊現象等の、オカルト現象の研究に没頭していたため、世間からは、お化け博士とか、幽霊博士と云われ、変人あつかいされていた事も事実である。福来が四十六才の頃の話である。(1952年83才にて没)